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小学校時代から渡米の決意を秘めていた四島青年。反対していた両親もあまりの熱意にほだされて、ついに明治30年、一二三氏17歳の秋に渡米が実現した。
渡米後、四島青年はサンフランシスコでスクールボーイ、サクラメントでは農園労働、ポートランドでは線路工夫と様々な職に就いた後、ロサンゼルス近郊のサンタポーラにあるレモン農園で働き、その熱心な仕事ぶりが認められ22歳の若さで経営責任者に抜擢された。その後四島青年は明治42年(1912年)に四島商会を設立、多角経営を行って四島氏の産をなす大きな源泉となった。
四島商会設立時の写真と四島カンパニーの株券
四島青年の夢とロマンを育んだ、当時世界一と伝えられたカリフォルニアのレモン農園
アメリカ時代 ディナーの銀食器
太平洋を渡ったトランク
渡米初期の明治三十年代に四島青年は、本名の市次を一二三と改名しました。これは当時アメリカに労力供給業の大ボス熊本一二三という人物がいて、多い時は三千人もの労務者を動かしていたことを知り、なんとかして人の上に立ちたいという願いから、熊本一二三にあやかって改名したもの。
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薬師如来像の前で毎朝礼拝して一番電車
で出勤しました。一番電車通勤
一二三さんの一番電車通勤は30年余続きま
した。始発電車の運転手さんが待っていてく
れたこともあったそうです。「二宮佐天荘」の案内板
居宅の玄関に掲示されていたもので、勤倹貯蓄の二宮尊徳、勇気の宮本武蔵、犠牲精神の佐倉宗五郎、約束
死守の天野屋利兵衛と、敬慕する四人の人たちの名前をとって、自宅の名称としていたことがうかがわれます。「七転び八起きの塀」~自宅を囲むジグザグの塀
この絵は、額縁の刻印に「大分」とあります。大分への顧客行脚の折、共感されたお客様から贈られたものでしょうか。画家名、送り主不明の作品ですが、一二三さんの鉄の意志を見事に表明した力作です。
自家用格言
四島一二三さんは、80歳から習字を始め、これは米寿のときの作です。
自分への励ましの言葉をたえず生み出していました。一二三さんの誕生日 社宅の子らがお祝いに
毎春、嬉しいお客さんが、「会長さん こんにちは」 一二三さんの誕生日に近くの社宅の子らがお祝いに。また、新入行員が会長宅を研修で訪ねるのが、毎春の和やかな行事。 一二三さんとカツミ夫人が大歓迎でした。
大悲願 興産一万人
四島一二三さんは、かねがね、無産の人から一万人の
中産階級(資産二千万円以上の人)を作る手助けをした
いと考えていたので、その中道で斃れたときは、氏は
上記のように自分の墓の碑面に記してもらいたいと遺
言する考えでした。
「興産一万人」はその思想を体現する言葉として今も
当財団の理念として生きています。数取り器
一日一万歩を目標に、この数取り器をカチカチ押しな
がら、会長室をグルグル回りする、ユーモラスな姿が目に浮かびます。(当時は便利な万歩計はありませんでした。)(昭和45年頃)
石井さんが贈られた一二三さんとカツミ夫人の肖像
石井鉄工所の会長・石井宗太郎氏は、徒手空拳の青年時代に、一二三さんの支援で事業を起こされた方で「私が興産一万人の証しです」と言われます。この画像は石井会長が示現会の大塚節(みさお)画伯に依頼し、二人の八十歳のお祝いに感謝を込めて献呈されたもので、画伯も、夫妻の魅力にひかれて心をこめて描かれたそうです。
五十年勤続と蔭の五十年勤続表彰
銀行の創立五十周年記念で、一二三会長に、行員一同からユーモラスな五十年勤続表彰状が渡された。
あわせて、カツミ夫人に蔭の五十年勤続表彰も。一二三さんの寄金と銀行の支援で昭和48年に設立された「九州・山口地方経済貢献者顕彰財団」(現在の当財団)により運営。毎春地域経済の向上発展に尽くされた経済人を顕彰しています。
名人小島与一作の博多人形「好日」