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01.早朝の一二三さんにノック

株式会社石井鉄工所
社長 石井宗太郎氏

私が四島一二三様のお名前を知ったのは四十数年前のことです。アメリカから帰国されて後、私の生家の近くの伊崎に居住されていた私の二十四、五歳の頃のことです。

満州事変にはじまり、戦死者が出るたびごとに誰彼の別なく弔慰の花輪が送られるのです。近所の人達はアメリカから帰られた、お金持ちの人だそうなということでしたが、それだけではなく、ご夫婦お揃いで英霊にお参りされた遺族をお慰め下さるのです。

四島様とは存じ上げない頃のことでしたが、何とご立派なお方だろうと心から敬服しておりました。

私が、一二三翁を、朝早くお訪ねしたのは、昭和十二年十一月頃でした。四島さんは朝の一番電車で会社へ出られる。早朝なら会ってもらえるというので、渡辺鉄工所へ出勤の前に会社へおしかけたのです。

伊崎浦ですと言っても、ああ、そうですかと、そっけない。私も若いし、一途でしたから、週に二、三回、のべ四、五十回通って、一二三社長に融資して下さいとお頼みしたのです。

私の父は漁師でしたが、船の手違いで高利の金を借りて、四苦八苦でした。私は渡辺鉄工所へ勤めていましたが、よく働きましたし、残業もする。給料はそのままおふくろに渡しましたが、それはそのまま返済に消えるんです。

なんとかして独立して、金を返し両親を楽にしてやりたい。そればかり考えていました。

ありがたいことに、そのころ同じ伊崎浦に、福岡無尽の社長さんがいなさることを知りました。人に優しいし、アメリカで成功して男気のある人といううわさでした。

私はこの方を頼ろうと決めたのです。それからは、ひたすらでした。当時、二十七歳でしたが、若さは無鉄砲な事ができるんですね。

四カ月通って、社長さんが根負けされたか、保証人か担保がありますかと言われる。そんなものある筈がない。あなた、保証人も担保もない人に金融機関は融資できませんよとおっしゃる。当然ですよね。

で、私の生命が担保ですと言いました。社長さんは、生命が担保?どうして、と言われる。

私は生命保険に入って、受取人を貴方の会社にします。一生懸命働くから必ず払えるし、もし途中で死んでも保険で返せる。必ず返しますよ。私の真剣さに、社長さんは、ほう…、と何か感じられたようでした。

そして、よく「石橋を叩いて渡る」というが、貴方は石橋を叩きますかといわれる。私は即座に叩きませんと申しました。社長さんが、なぜと言われる。石橋かどうかを見きわめる事が肝心なので、石橋と見きわめたら叩いたりしません。すぐ渡りますよと申しました。

この言葉が社長さんにとても気に入られたんですね。わかりました、貸してあげましょう。工場用地も探してあげよう。どの位いるのと言われました。工場が三十坪で、五十坪あれば…。五十坪ねえ、と言われました。

しばらくして、土地が見つかったからおいでなさいと電話です。わくわくしてうかがいますと、工場なら将来を見こして二百坪はいるやろう。いい土地を見つけたから見にいってきなさいといわれました。それが今、私が住んでいる土地なんです。広すぎてびっくりでしたが、申し分ありません。お願いしますと申しますと、じゃあ一切まかせなさいとおっしゃった。

何日かして、貸付係の井上さんという人から電話があって、実印もって田中代書人へ行って登記してきなさいと言われる。実印だけは、融資を受けるときいるだろうと用意していたんです。

こうして手続きが終わって、会社に顔を出すと、井上さんが、あなた登記料払ったかといわれる。実印をもってこいと言われたからその通りにしたというとあきれて、社長さんに聞いてみなさいと言われる。

社長さんにその通り言いましたよ。何もかもお見通しで、ニャッと笑って、私がいいと言ったと言っときなさい、でした。

井上さんから、登記料まで出さしたのは貴方だけばいと言われました。私も本当に生命がけで、顔は笑っていたが心は泣きよったですよ。

それから一年ちょっとでこれまでの高利の金を返し、時代もよかったですが、七年たたぬうちに従業員百人ぐらいの工場になりましたよ。

機械を買うとき、御相談すると、メーカーの良い機械はすぐOK。どうかと思うところは、すぐ、やめときなさいでしたな、旋盤を買うときも大隈鉄工所のというと、ああそれはいい、買いなさいでしたな。

工具店も信用でしたが、お金が入るとすぐに返しにいった。入ったからと返しにくるのは貴方だけばいと信用され、ゆっくりでいいよ、と言われたりしました。四島社長さんに恥ずかしい事はできんと思いこんでいましたからね。

一二三翁はカンのすぐれた人でしたな。戦後ですが、高周波電波をつかって焼き入れ加工をする機械を入れようと融資のお願いにいきました。それはなになと言われる。北九州に二社あるだけ、福岡にもない。充分成算あると申しあげると、「よかろうな。ところでこれは石橋な」と言われる。最初の話を覚えてあったんです。

大丈夫の石橋です、と申しますと、そうなと言って秘書のお嬢さんに、博多駅前の支店長さんを呼んで下さいと言われる。社長さんは女の子にも、誰にでも丁寧な応対で、必ず“さん”づけでしたね。

「博多駅前の支店長さんですか。ここに石井さんが見えて、新しい仕事に二千万円いると言っておられます。お宅の担当だから出しとって下さい」。

私は今でも、社長さんみたいに丁寧な言葉は使いきらない。入社早々の人にも、みんな“さん”づけですからね。

よくお宅にお邪魔しましたよ。奥さんが、ぶったところのない実に立派な方で、石井さんどうぞ、とボタ餅なんかよくいただきましたな。

戦後はたいへんでしたから、社長さんに、F銀行での斡旋を頼みました。うちでいいですよと言われる。いいえ、私は貴方を一生の恩人と思っている。もし払えんで差し押さえられたら、恩人の貴方をうらむ事になる。そうなってはならない。だから今度のお金はF銀で借らして下さい…。

社長さんは、そうなと言って、電話をF銀の営業部長さんにかけられました。「石井さんは私からは借らんと言いよるけん、お宅で頼みます。私が保証人になりますよ」社長さんが保証人ならどこでも貸してくれますよね。こうして百万円借りました。

ここまで、可愛がられた人は他にいないんじゃないですか。だから私は、社長さんの誕生日もお命日もちゃんと覚えていますよ。井上常務(当時)が見えたとき、「私は三十八年間、お金の面はもちろんですが、それ以上に人の生きていく道を教えてもらいましたよ」と申しあげました。

私には社長さんは恩人だし、相談相手で、しょっ中うかがってました。社長さんのお顔を見ると気が晴れました。でも、昼休みの一時間だけは、静養しているといって絶対駄目でしたな。

意志の強い方でしたが、反面、周囲の人には優しかったですね。昭和のはじめ頃は電話が少なかったので、どうぞご自由にお使い下さいと家の前に貼り紙してあったし、ご近所の呼び出しまで…。そして家族思いでしたな。

いつか百道のお宅へうかがったとき、何の話からだったか、社長さんが「石井さん、司はえらいよ。あれは私より上手やもんね」と言いなさった。すると横におられた奥さんがね。ウワーッと泣き出された。「奥さん、よかったですね」と私が申しあげると、またウワーッでしたよ。本当にいいご両親でしたね。

茶目っ気もありました。ある日の早暁、車がブーブー鳴らすので出てみると、下水工事の掘りかえしにタクシーがのめりこんで動けないでいる。そこで木ぎれを運んだりいろいろ手伝って、やっと脱出した。

運転手さんが礼のつもりでしょう、百円だした。いらんよというと、とっとけ、とっとけと言ってたち去った。百円もうけたよと、得意そうに話しておられましたよ。

それから霊園に名刺受けをつくられたでしょう。御参りした人に礼状を出されるためでしょうね。

あるとき娘さんが自殺しようと、霊園をぐるぐるしているうちに、たまたま一二三翁の格言墓碑が目に入った、読んでいるうちに、「祖先に対する最高の祭りは道を守り業を励むにあり」。それでやり直そうという気になった。そのことを名刺ボックスにいれておかれた。

一二三翁は、墓が人助けをしたと御満悦で、その娘さんを自分で訪ね、地球儀をおみやげに、頑張んなさいと励ましておられるんです。会社の社長さんが、なかなかこんなことできませんよ。

自分には、格言をつくってきびしかったが、人には強制されないし優しかったですな。しかし芯に、信念を持っておられたから、変な人は近寄らなかったですね。

部屋の壁に、一二三翁の書をかけています。勢いがいい。雄渾な筆ですね。お正月に十枚ぐらい書いたから、いるならあげるよ…と言われていただいたものです。この書を見ながら、一二三翁は、私にとって終生師であり、親であり、恩人だったなと思っています。

― 昭和50年(1975)ごろの話 ―

02.江頭さん、まだ、まだ

ロイヤル株式会社
会長 江頭 匡一氏

四島頭取に書いてもらった「和而不同」の額を、私の部屋にかけています。もう三十年来の友人ですが、ああ、これが、司さんがいつも言っている“間”なんだなと感じます。私は会長になりましたが、相変わらず忙しくて、だからこの書が嬉しいんですよ。

司さんの本『人惚れ』をなんども読みましたよ。我が友は、こんなに立派だったのかと、あらためて感じています。「愉快な父だった」というところがいい。二人の意見が違って、一二三さんはカンカン、司さんも譲らないから、お互いに顔をあわさない事が続いたり、そんな事を知っているから、この表現が嬉しいですね。

一二三さんは命をかけてつくった銀行でしょう。我子だが、譲るに相応しいか、何度も谷底へ蹴とばして、譲って大丈夫と見定めたんですよね。『人惚れ』を読みながら、一二三さんは満足しておられるだろうなとつくづく思いましたよ。

一二三さんは「興産一万人」を掲げられましたよね。この頃、その一人が私だったんだなと、そう思うんですよ。

昭和二十四、五年頃、私は野心に燃えていましたからね。お金があれば仕事ができると、サウジアラビアの王様に借金を申し込んだりしたんですよ。

家内が榎本監査役夫人和子さんと女学校時代の友達なんですよ。だから一二三さんの事をよく知っていて、「お願いしてみたら。朝早く行けば会えるそうよ」と言いました。それで熱心に、五日ぐらい毎朝通って、借りだしました。

旧県庁前の木造建て二階、横に国民型の木のラジオが置いてあり、長椅子があって、一二三さんは金庫の方を向いて座っておられた。

バランスシートもなにも見られなかったけれども、私の話を聞いていただき、ずいぶんな額を融資していただいて、ロイヤル発祥の中洲の第一号店をつくったんですよ。

十年もたって仕事が順調にまわりだすと周囲がもう少しは自分や家庭のことに気を使ったら、少しゆっくりしたらと言いだしましたが、一二三さんだけは、「まだまだ。江頭さん。満足は腐敗だよ」とおっしゃる。気を抜くな、まだやれ、まだやれ、落ち着いちゃいかんでしたよ。

御自分も九十歳すぎても、そうだったですからね。

この本社の土地を買ったときも、銀行でお借りして、お百姓さんに払うと、一二三さんが縁側でお百姓さんと話したりして六割か七割は自分のところへもって帰られる。あの熱心さにはまいりましたね。

ハイカラ好きで、車もリンカーンがお好き。コカコーラもまだ誰も飲まないときから飲んでおられた。茶園谷にお住まいの頃、当時は珍しかったバヤリースオレンジをお届けすると、地下足袋はいて畑をつくっておられたが喜ばれましたね。

会長の戦死とでも言いたいような壮烈な御逝去ぶりをうかがって、とても言葉には表現できない、強い感動をうけましたね。

古川先生や佐田先生が、いよいよご臨終ですと言われて、親族が集まられると、すやすやと呼吸を回復して蘇生される。こうしたことが三回ぐらい続いた。九十六歳のご老人ですからね。これはもう、ありえないことなんだそうです。名医の先生方が、医者として初めて恥をかいた、すごい生命力だとおっしゃるんですね。

私が電話しますと、いよいよ今日でしょうねと、家族の方が言われる、それが六日間も続いて、もうわからなくなって、驚いてばかりいましたね。

司社長いわくですね。三日目、四日目となった頃から、お父さんの生きよういう気魄が、一族やお医者さんにまでのりうつって、あとは、お父さんの生命を一分でも一秒でも守ろうということにみんな懸命だったそうです。

若い人たちが何回も人工呼吸をしているうちに、肋骨が折れてしまった。御本人は意識がなかったので苦痛も感じられなかったでしょうが、結果はテニスボールを押さえるように人工呼吸ができて、よかったんだそうです。

何度も危篤、蘇生をくりかえして、九十六歳のおじいちゃんが十日余も生きぬかれたのです。

告別式で、菊の花に飾られた一二三さんの柔和な顔が私に話しかけておられるように思えて、泣けてきました。一二三翁の生きざまと最期の十日間の生への強烈な意志に、心底から揺さぶられていたからでしょうね。

一二三さんは、自分の死にざまで、福岡相互銀行全員の結束と前進を諭された。だから、私は戦死だと言うんです。だから、遺影を拝して、涙が出てしかたがなかったんですね。

今から二十四、五年前、一二三さんから墓をつくんなさいとすすめられた。それで、一二三さんと同じ平尾霊園にまっ白のユーゴの大理石でお墓をつくりました。

だから私の墓参りのときに、一二三さんの大きなお墓にいつもお詣りしています。あの碑の正面の格言、

祖先に対する最上の祭りは 道を守り業を励むにあり

を読みかえして、まだまだだよと、諭されていますよ。

一二三さんは、一番電車にしても格言にしても、たいへんなアイデアマンでしたね。間違えられては困りますが、信念の人、気骨の人。一万人に一人の人とかいうことでなくて、一億人に一人というぐらいの偉大な人であって、その上にそうした輝きと深みをくわえられたんですね。

一二三翁は、たまたま銀行屋になられたが、デパートでも商社でも何をされても、いちばん先端をいって一流のものをつくりあげておられたでしょうね。だから福岡相互銀行の中には銀行というものと、いわゆる商人の血が流れている。司社長もそうだと思う。そこらへんに魅力があるんじゃないですか。

まったく、四島一二三翁は、偉大な方でしたね。

― 平成3年(1991)10月談 ―

03.限りない感謝を

― ご弔辞より ―

西新保育園 高取保育園 ふたば保育園
代表 西新保育園
園長 浦谷冨士子氏

顧みますと、前福岡市市議会議長渡辺茂先生のご尽力によって初めて理事長様に拝顔したときの、あの日あの時が昨日のように脳裏に去来するのでございます。

“国の基盤をなすは人であり、人は社会を動かす”の卓越した識見と豊富な人生経験をもって、多大な財力を惜しみなく保育事業に投与くださいました。

民間保育園づくり助成第一号として、昭和三十九年に近代的設備を誇る西新保育園が新設され、昭和四十三年にふたば保育園と高取保育園、四十八年には、ふたば保育園が鉄骨三階建ての西日本随一の白亜の子供の園として改築竣工を見、四十九年には、高取保育園が、百名定員増による分園を設立。十一年間に内外ともに充実した三園は、着々と躍進を続けて、保育園関係者を驚嘆させているのでございます。

これはひとえに四島理事長様が保育の根幹とする児童福祉の理念の神髄を極められ、自ら範を示されたからでございます。崇高な人づくりの精神は、八十九カ園の福岡市民間保育園へ継承され、先般開催されました全国私立保育園研修大会で、福岡方式として賞讃されたのでございます。

九十六歳の天寿を全うして逝かれた今、天の摂理とは知りながらも哀惜の情きわまり、辞ことばの出るところを知りません。

― 昭和51年(1976)11月 ―

04.明治人同志

― ご弔辞より ―

株式会社岩田屋 会長
友人総代 中牟田喜兵衛氏

七年前、米寿のお祝いをみんなでいたしましたとき、赤いちゃんちゃんこを着せられたあなたは「私はまだ翁には早い、まだ若老、若い老人ですよ」とさかんに照れておられました。貴方を翁とお呼びしても、もう叱られることがなくなりました。本当にさびしいですね。

米寿のとき、次は百まで頑張ると言っておられましたが、昨年ご夫人をなくされてからすっかり気落ちされ、とうとう後を追ってしまわれましたね。

お互いに年寄りで、仕事も違うので、めったにお目にかかることもありませんでしたが、四島さんがおられると思うだけで、何やら心のハリがありました。明治のじじい同志のふれあいでもございましたでしょうか。

貴方は一番電車で三十三年間通勤するという、これと決めたら必ず実行する、私どもにはなかなかできない意志の堅い方でした。ご遺影に拝するように、内心は、はにかみやの心の温かい方だったのでしょう。

貴方の人生そのものが、そのまま多くの人たちにとって支えであり、なごみであり、希望でもあったのだと思います。

はやばやと十数年前、平尾霊園につくられた四島格言でうめた大型の風変わりな墓を見て、自殺を思いとどまった方もあったと聞いております。

貴方は自分の行動と生活で多くの人に元気づけをしてきた庶民の中の教師でしたね。口先ばかりで行動が忘れられた現代にあって貴方の存在は青空を仰ぐように爽快でした。

仕事が趣味で、お金をせっせと貯めて、いったいどうされるのだろうと思っていましたら、保育園の事業や中小企業育成の財団をつくったりしてお金を浄財にかえていらっしゃった。

やはりお金活かしのプロだったんだなと、あらためて敬服いたしております。明治生まれ同志の永年のおつき合いありがとうございました。

― 昭和51年(1976)11月 ―

05.四島一二三翁へ

― ご弔辞より ―

作家 原田 種夫氏
(『四島一二三伝』著者)

わたしは、つねにあなたに対して敬愛の念をいだいておりました。それは、あなたの生活を貫く強烈な意志と行動力にふれたからであります。

昭和四十一年、わたしは当時八十六歳であった、あなたの伝記を書いたのであります。何の先入観もなく、白紙の境地で、あなたの声容に初めて接しました。あなたの偉業と高風を、後世に伝える伝記を、わたくしが書こうとは夢にも思わなかったのでした。結縁(けちえん)の不思議とは、このような事を指すのでありましょう。

伝記を書くには、その対象の方から、詳細なる取材を必要といたします。しかし、あなたは、己れを語ることを好まない人でありました。明治人がもつ一種のはにかみであったと思います。

わたしは、血縁の方々をはじめ、あなたの側近の方々のお話を聞き、いわゆる傍証がためによって、『四島一二三伝』を完成いたしました。果たしてわたしの作品が、あなたの実像に迫り得たのかどうか、わたしにはわかりません。

あなたは、三本百円のネクタイを愛用する、なりふり構わぬ野人でありました。

多くの格言を作り、格言社長とさえいわれた方でありましたが、あの沢山な格言は、すべて己れを律するためであって、決して人に課するための格言ではありませんでした。あなたは、自分を律するにきびしい方であって、他人に対しては、つねに好々爺でありました。

大正十五年から、昭和三十二年まで、三十年余つづいた有名な「四島の一番電車」通勤は、あなたの裡(うち)にある、明治の気骨がさせた業だと思います。誰にでも出来ることではありません。

三井郡金島村の一農家に生まれ、刻苦精励し経済界の第一人者となった、あなたの生涯は、人生苦斗のドラマであり、一つの立派な立志伝そのものであって、懦夫(だふ)をして起たしむるに足る、生きた教訓である、とわたしは信じます。

おもえば、福岡相互銀行が今日の大を成したのは、じつに、あなたの陣頭指導に従って、行員の皆さんが一致団結して前進した結果であります。

昨年の十月、愛妻カツミさんを喪われてから、あなたに衰えが現れたと聞きました。カツミ夫人は、あなたの杖であり、強い支えでありました。

ついにあなたは九十六年の生涯を完うして不帰の人となられたのであります。驚くべき強靱なる生命力で、天与の生命を、九十六年も保つということは、実に偉大なることであります。

思えば、あなたの明治生まれの反骨精神は会社の経営にも、私生活にも、いささかの妥協を許さず、仕事一途の人で、不正や虚偽を寄せつけない烈しい正義感があなたの身上でありました。

決断力にもすぐれた方であったが、一面涙もろいヒューマンな面や、ユーモラスな面も併せ持つ人でありました。保育園の支援など、色々な社会奉仕をされたことも忘れがたいところであります。

二宮佐天荘主人、四島一二三翁よ、あなたこそ、明治の気骨を貫いた、さいごの明治人だとわたしは固く信じます。

― 昭和51年(1976)11月 ―

06.貴重なケチ哲学

九州電力株式会社
会長 瓦林 潔氏

四島翁は自らの生活には極めて厳しく節約精神は実に徹底したものであった。世の人は四島ケチ哲学などと言う。ケチも哲学ともなれば大したものであるが、翁の場合はケチとは意味が違う。

自分自身の事では極端に節約され、それを世のため人のために施されて来たのである。一例を挙げれば、昭和四十七年私財一億円を投ぜられ「九州・山口地域経済貢献者顕彰財団」を設立され、不肖私が財団理事長を仰せつかっている。毎年九州山口地区内に於ける中小企業者の中から優秀な五社の企業家の方々が表彰されている。

基金も銀行が追加出資し二億四千万円となっており、被表彰者も増えていくであろう。

― 昭和51年(1976)11月 ―

07.戦後初の衆議院選挙で社会党・杉本勝次さんの事務局長に

元福岡県知事
杉本 勝次氏
(回想録から)

稲築町のお客様、松隈幹夫様から、お手紙をいただいた。『博多・北九州に強くなろうシリーズ』の「森鷗外」篇を読んで、四島一二三さんの記事を思い出したので送るとあった。

同封のコピーは昭和五十一年の、西日本新聞で、聞き書きシリーズ「杉本勝次」元福岡県知事の『生かされて生きて、八十年』の第十四回の記事だった。

戦後初の衆議院選挙に出陣と決めたが、自由党から出るか、社会党から出るか、迷いに迷って、九大学長にもなられた菊池勇夫さんに相談して、社会党から立候補と決意。社会党の大御所松本治一郎さんに党公認の斡旋をしてもらったとある。

そして「私の選挙事務局長は、先年亡くなった福岡相互銀行の四島一二三会長でした。地元財界人が社会党の選挙事務局長に就任するなどは、現在ではちょっと考えられないことでしょう。

だが、当時の社会党はそれだけ支持層の厚い政党でしたし、また四島さんご自身も保守一辺倒ではなく、実にスケールの大きな人でした」とある。

戦後最初の選挙で、福岡一区は定数九に対し六十八名の立候補と、今ではとても考えられない選挙だったが、四万五千票で七位当選。四島事務局長も面目を保てただろう。

この時の当選者は、戦後日本のリーダーだった石井光次郎、楢橋渡といった人たちの名が見える。

― 平成12年(2000)3月 ―

※一二三翁は自分を語らない人でしたから、原田種夫さんの書かれた伝記にもこのことは載っていません。思いがけないお客様からの、ありがたい愉快なお知らせでした。

08.心のささえのひと

株式会社杉乃井ホテル
社長 石田 清氏

四島さんとは、もう四十余年のおつきあいです。口先で立派なことを言う人は多いですが、行動の伴う人は少ない。四島さんは言ったことは必ず実行する。よいと思うことはすぐ実行し、悪いと思うことはすぐやめる。とにかく立派な人でした。

四島さんほど、努力する人はいないし、信念の人もいない。私は自分の心の支えだと思って、お訪ねするのが楽しみでした。

四島さんが戦争中に自主独立に徹しられていまの福岡相互銀行があるのですが、四島さんにほれこんでいた私も、蔭でお力添えさせてもらいました。私は当時の軍や官僚の首脳に知り合いが多く、頼めば、大方のことは聞いてもらえるつながりがありましたから、四島さんのためならいくらでも骨を折るつもりでした。ケンカのほうは私が引き受けますよ…と言ったものです。

新本店の土地のときも、ある銀行がもうひとつからんでいましたが、四島さんのためならと話をしにいったりもしました。駅前の土地がいちばんですよ。ぜひお買いなさいとすすめたもんです。もちろん四島さんも、司さんも、その決心はしてあったでしょうが。

杉乃井の融資のことについても、四島さんがいっしょに顔出しをしてもらったりして、一ぺんで話がついたこともありました。

四島さんが眠っておられるお墓も独特で、いろいろ相談をうけましたが、四島さんにピッタリのお墓ですね。「墓に、強盗なんかという言葉を入れてと、司が文句いうので、出来の悪い息子は強盗よりこわかばい…と言ってやった」と、笑っておられました。

四島さんほど、偉い人はいないと私は思っています。とにかく、言葉と行動が一つの人でしたからね。そして、また、四島さんほど幸せな人はないと思っています。できた立派な奥さんと、司さんのようなよい息子さんを持たれましたからね。

四島さんは、口では強いことを言っておられても、奥さんなしではいられない人だったし、司さんのことも、若いときからちゃんと見とおしてあったようですね。ながい、ながいおつきあいでしたが、商売ぬきにしてウマが合ったんでしょうね。

※墓の西面に
「安心と自惚と油断は禁物
 心の弛みは強盗より恐い
 精神には常に武装せよ」とある

― 昭和51年(1976)11月 ―

09.あんなひといないよ

株式会社ベスト電器
会長 北田 光男氏

一二三さんの百十年。ほう、生きておられると百十歳ね。よく、うちの店へひとりできて、電池や何か、こつこつと買っておられたな。懐かしいねえ。

朝の一番電車が有名だったね。高台の、そう茶園谷か、あのおうちへお邪魔した事がある。庭いじりしてあったが、百姓仕事がお好きだったのね。奥さんが、また実にいい方だったね。

司頭取もだが、あの親子は銀行の頭取のように見えない。庶民的だもんね。偉(えら)ぶっていないから、話しやすいのよ。いろいろ御世話になったな。

あまり言いふらしてもできんかもしれんが、戦時中の統合に、ひとり身を張って銀行を守ったの、立派だね。だからいまの福岡シティ銀行があるんでしょう。当時の権力とだから、たいへんだったと思うよ。捨身の決心だったんだね。そして、法律にも詳しかったんじゃないかな。

司頭取の若いときの元気ぶりはよく聞いているが、一二三さんといい親子だね。よく育てられ、よく育ったね。全く(笑)。司頭取が駅前の土地を買ったのえらいね。あの当時はまだ原っぱだったね。度胸があるよ。うちも旧本店を譲ってもらって、発展できた。ありがたかったね。

一二三さんにはいつもよく私を支えていただいたよ。えっ、徒手空拳(けん)で頑張った人が好きだったって。なるほど、おたくの伝統なんだね。中には見込みちがいもあっても(笑)。地元の銀行らしくて、それ、嬉しいね。

私も引き揚げてからだし、倒産もした。頑張ってたから一二三さんが認めてくれたんだね。いや、お世話になったよ。

だから普銀転換のときは、一番に預金に行った。会社だけではすまんから、私の分も持っていった。

あんな人、いないよ。骨があるし、何とも言えんぬくもりがあった、立派な人だったよ。

(談)― 平成3年(1991)10月 ―

10.有田先生に四島一二三さんを訪ねてごらんと言われて

公認会計士
監査法人トーマツ
代表社員 渡辺 正則氏

私は山口高商の頃から“人生いかに生くべきか”ということをいつも考えてきました。九大のときも、そして社会に出ても、それが念頭をはなれません。

いちどだけの、繰り返しのきかない人生です。充実した人生をおくりたい。そのために本も読みますが、いちばん役立つのは自分の人生を確立しておられる方のお話をきくことですね。

昭和三十四年に若築建設の委嘱を受け有田一寿先生に私淑する機会を得ました。先生は若築建設の社長さんですが、教育関係への御造詣が深く、人づくりにたいへん御熱心で、臨教審の部会長としてその采配をふるわれました。身についておられるたいへんな御教養と、御心のひろさが海のようで、ひとりでに頭の下がる方でした。

私は福岡に事務所を開いたばかりでしたから、福岡で教えを請える方を三人お教え下さいとお頼みしました。

先生が、じゃあこの人たちがいいと、あげていただいた三人の方が、瓦林潔九州電力副社長(当時)、岩田屋の中牟田喜兵衛会長、そして四島一二三会長でした。

あえて御紹介状はいただきませんでした。私は五分か十分でいい。またとない人生をいかに生きるべきか、御教示下さい、と心をこめた御手紙をさしあげました。

私の事務所が三和ビルですから、四島一二三会長がおられる当時の本店へは二、三分で、さっそくお訪ねしました。

秘書の方からどうぞという事で、会長の御日常も存じていましたから、朝の七時頃お邪魔しました。ニコニコとして、有名なユニークな名刺を出され、そして、もう骨の髄まで御自分のものになっている翁の格言をうかがいました。

お歳が九十歳ぐらいのときで、日課の靴下はだしで数取り器を手に、部屋のまわりをグルグル歩いておられるのです。一日何千歩とか、翁のオリジナルの健康法でした。それで私も、翁のペースに合わせながらうしろについてまわってお話をうかがったのですよ。

いまも平尾霊園のお墓の正面に刻まれている「祖先に対する最上の祭りは道を守り業を励むにあり」をうかがって心をうたれました。

そして、来年また一時間ほどと申しましたら、「いやいや、いつでも来て下さい」と言われ、そして私の手を握って「司を頼みます。司をよろしく頼みます」とくりかえし言われるのです。私はうろたえながら、胸にじんじんとくるものを感じていました。

以来、私は月に一回は霊園をお訪ねし、碑面の言葉を朗唱していますが、道を守りが実にいいですね。これがないと、いくら業を励んでもアダ花ですよ。肝心のことをグサッとおさえてある。九十六歳の御生涯には、幾度も真剣勝負の御気持ちのことがあったでしょうが、その上での“道を守り”だけに、重みがあって…。永続する繁栄は道を守る以外はないんですね。

有田先生はお会いするたびに、先生の世界の広がりを感じさせられましたし、三人の方には本ではくみとれない、真剣に人生を生きてこられた方々の、なまの人生読本の醍醐味を味わわせていただきました。

(談)― 平成3年(1991)11月 ―

11.「校歌にも格言が…」

北野町立金島小学校
校長 長野 和夫氏

〈聞き手〉福岡シティ銀行甘木支店長
加来 峻

▼「堅持せよ鉄の意志と火の精神力。断行せよ、信念の前に不可能なし。八十八若老。四島一二三」。出身の母校に自分の書をかけさせていただいて、一二三さんも感激しておりますでしょう。金島小学校史の冒頭にも載せていただいて…。

長野 校歌の中にも同じ言葉があるんですよ。できたのが、この書をいただいた頃で…。つながりはよく分かりませんが…。
父兄から、金島の出身者に有名人がいないという話が出ましてね。いやいますよ、四島一二三さん(笑)、そして西日本新聞の福田利光会長さん…。

▼本人には何よりの名誉でございましょう。

長野 自分を律せられた立派な方ですね。いまの人は立派なことを言っても、たいてい三日坊主ですね。一番電車三十余年ですか、明治の人の信念はすごいですね。自分の言った事を実行されたから、こんな立派な人になられたのでしょうね。

▼おそれいります。一二三翁はこの学校に通いましたので…。

長野 いや、その頃は高島にあった旧金島村の学校です。向こうが中川で、その当時金島と中川が合併して金島村になったけど、学校はそのままで、二つがなんかといえば対立する。村発展のために統合しようということになり、ここに金島小学校ができて八十年をこえたのです。

▼先生は、一二三翁が本校出身とは前からご存じで。

長野 いいえ。十年ほど前、教頭でまいりまして、学校の基礎をと考えていましたとき、四島さんの額が目に入った。
私の考えにもピッタリ。校歌にも載っている。これでいこうと…。生徒たちに、学校の先輩にはこんな人がいるよと、しょっちゅう話しています。

▼ありがたいことですね。

長野 ご本を読みますと、四島さんは行員が泳ぎやテニスにきて汗を流す風呂を、ご自分でマキをくべて沸かしておられたんだそうですね。いいお話ですね。お客さんも、行員も、地元も大切にされたんですね。
四島さんが大先輩というのは、学校にとって何よりありがたいですね。

― 平成3年(1991)10月 ―

12.無口な父

株式会社高木工務店
社長 高木 泰助氏

父、末吉は無口でしたが、仕事一途だったので一二三翁に信用されたのでしょうね。

なにかで御機嫌が悪いときも、父がうかがうとニコニコなさるので、行員さんに喜ばれたそうです。

一二三翁のお伴をして、支店用地を見にいったりよくしていました。父がいいですねと言うと、安心して決められたそうです。

一二三翁に心酔していた父でした。

(談)― 平成3年(1991)10月 ―

13.好きばい

佐賀市 株式会社実松製作所
社長 実松 利雄氏

佐賀支店の光武さんとのふれあいで、おたくと取引をはじめた。しばらくして光武さんが、うちの社長を連れてくるけんと言いなさる。

そんな事、まさかと思っていたら、本当に連れてきなさったからビックリした。あの頃は、私が三十四歳だったかな。ゾーリをつっかけのごとして、わき目ふらんで仕事していた。まあ、おあがんなさいとあがってもらって、お話を聞いているうちに昼になったので、ありあわせのものでどうぞと言ったら、喜んで食べなさったので感心した。

そして、なんでか知らんが、あんたのような人が好きばいと言いなさったが、どういう意味でか、ようわからんやった。

そのうち従業員も二十数人になったので、慰安旅行でマイクロバスを借りて福岡へ出かけることになった。光武さんによかとこ案内してと頼んだら、まかしときと言いなさる。

最初、大濠の銀行の研修所へ寄ったんやった。ミルクイチゴを御馳走になっていると、社長がきて「実松さん、私が案内するばい」と言われたのでびっくりした。

私が社長の外車に乗り、うちの連中はマイクロバスでついてくる。西公園へ行ってから、私の墓見てくださいと霊園へ行った。二人で写真とったが、雨が降って傘さしてたな。

うちへおいでと言いなさるので、お邪魔して、奥さんに御世話かけました。庭の木それぞれに四十七士の名をつけてあったが一本多い。そういうと、いやこれでいい。天野屋利兵衛が入っていると教えなさった(笑)。

自分で先に立って案内されるので、バスの運転手さんに、「あんた親戚ね。ようしてもらうね。あんた気に入られとるばい…」と言われた(笑)。

それから七転び八起きの塀の講釈を聞いて、なるほどなと思ったから、うちの工場にもつくった。

不渡手形にひっかかっておおごとのときも、微動だにせず二年で払ってしまった。あの塀を見ると四島さんを思い出すよ。迷信じゃなくて、信じこんでしまうことも大事なことよね。

四島さんが永い間、一番電車だったが、銀行の人たちが困るというので、こっちも困っとると言いなさった。齢やったから周りが心配したのでしょうね。

ほんとうに人を引きつける魅力がある人でしたよ。そして、あの人は、人を絶対軽蔑しない。大切にされる方だったのね。私だけじゃない、みんなにだろうよ。なかなかできないことで頭が下がりますね。

(談)― 平成3年(1991)10月 ―

14.親がわりだった

福岡ビューホテル
社長 磯田 博氏氏

一二三会長の百十年という事で、原田種夫さんの『四島一二三伝』を読み返しましたよ。会長の還暦のお祝いの写真が載っていますが、義父が写っているんであらためて懐かしく思いました。

父は洋画のユニバーサルに勤めていて、会社のお取引があって、一二三会長から独立しなさいと、すすめられたのですね。御支援いただいて、いまの場所に、昭和十一年に朝日映画館をつくったんです。以来、父子二代にわたって御世話になりました。

私が昭和三十年に結婚いたしましたときは御夫妻で御媒酌いただきました。呉服町の旧大丸のところにあった帝国ホテルでした。専務さんの速水梓さんも立派な方でいいコンビでしたね。速水さんは結婚式のとき「水の如し」というスピーチをくださいました。それからよくお宅へも、そして早朝の会社にもお話をうかがいに参りました。

週に二回ぐらい朝訪問して、八時頃には帰っていました。会長に、「あんたもヒマ人ばいな」、とひやかされたものです。

義父が昭和三十一年に、ガンで亡くなりましたが、亡くなる前の十五日間は毎日御見舞に見えました。御用で来られないときは「サイ(奥さまをそう呼んでおられました)をやります」と、奥さまが来られました。

話ができなくても、じっと枕もとにいらっしゃる。いまでも、家内と、あのときのありがたさを話し合っております。

それからは、父親のようなつもりでよく参りました。新規の事でご相談すると、「ヤメトキナサイ」。三べんいっても四へんいっても「ヤメトキナサイ」。重ねて行きますと、「それだけ決心しているんなら、おやんなさい」です。この言葉にはとても勇気づけられました。会長にそう言われると迷いが吹っとんで、ひたすらやらなきゃという気持ちになるんです。

ご相談すると、「おやんなさい」か「やめときなさい」で、あいまいな事は一度も言われない。そして理由も言われなかったですね。それで当時の榎本常務をお訪ねして訳を聞いてなるほどと思ったことも再三でした。

三十三年頃、映画館の冷暖房設置でお願いに行くと、それならちょうど環境衛生改善の政府支援の融資制度ができたばかりで有利だからと、商工中金さんへ連れていっていただきました。

商工中金さんは、どうも私を元気のいい人たちと間違えられたようで、「四島さんに保証人になっていただけますか」と言われる。保証には一倍慎重な方でしたから、この話ダメだなと思ったら、会長が「いいよ」とおっしゃって気がぬけました。ありがたかったですね。その時の印鑑証明は、今でも大事になおしておりますよ。

先般、杉乃井の石田清さんが亡くなられましたが、あの方や高木工務店の高木末吉さんとは、心をゆるしたおつきあいでしたね。勲五等の御祝いのとき、これは内助の功ばいと、有志がカツミ夫人にダイヤのプレゼントをいたしました。石田さんのお見立てに、私もお伴してついて行きましたよ。

五島慶太さんが亡くなられたとき、「立派な人だが早く亡くなられた。成功するためには長生きせないかんよ」と言われました。五島さんはたしか七十七歳でしたよ。これには驚きましたが、一二三会長は、九十六歳のギリギリまで現役で頑張られましたからね。この面でも信念を通されたんですね。

意志の強い方として知られていますが、内面にふれると非常に優しい方で、親のようなありがたい方でした。思い出はつきませんが、このへんで…。

(談)― 平成3年(1991)10月 ―

15.正直な人

島崎観光開発株式会社
社長 島崎 悦吉氏

四島さんは私より十五歳上でした。今年数えの九十六歳になりますが、銀行をはじめられた頃から、なにかしらウマが合っておつきあいしてきました。

本店が、旧県庁前の頃、よく世間話に行っておりました。

私は弁護士から、証券会社、そしてゴルフ場経営と、三たび商売を変えましたが、四島さんを偉い人だと、つくづく感じたのは証券会社の時代です。

何かの拍子に某社の株がもうかると話したのですね。四島さんがもうかるかいと念をおされるので、もうかりますよと言いましたが、それだけで、別にうちで買いなさいとも言わなかった。

それからずいぶんたって、四島さんが私を探しているという話を聞きました。何だろうかと思っていると、天神でばったり会った。

「島崎さん。あんたを探していた。あの株でもうかった。貴方が売って下さい」と言われる。これには感動しましたな。私の言葉で、どこかの証券会社で買われたが、もうけたので私に売ってくれ、こんなことを言う人はいません。証券会社はいくつもあるのに、この義理がたさは、並じゃない。この人は成功する人だなあ、えらい人だと思いましたよ。

春日原ゴルフ場の土地を買ったとき、四島さんを案内しました。「島崎さん、何をするのか」「ゴルフ場です」「妙なものを買うたんやなあ」と言われましたな。

アメリカで成功しなさったが、ゴルフは全然されん、興味がなかったのでしょう。四島さんには、妙なもんやったんでしょうな。

カツミ夫人は、あの頑固な人をよく支えられましたな。「島崎さんは、言葉がキレイな方ですね」と言われた事がありますな。私は神戸市長の男爵家の書生をして、大学へ通っていたからでしょう。

うちへ入れた甥が、ときどき姿を消す。どこへ行ってるのかと思ってたらおたくのラグビーチームのコーチか何かにいって、毎日、四島さんが沸かした風呂をもらっているという。四島さんに迷惑かけるなよと叱りましたが、私だけでなく甥まで、とりこになってしまいましたな。

市会議員になんなさって、三日でやめたのは四島さんだけでしょう。議長選挙か何かで、嫌気(いやけ)がさして、やめたらしいが、決めたら実行する人ですからな。

戦時中に銀行独立を守られたのはさすがでしたな。経営内容が立派だったから自信があったんでしょうな。訪ねていったとき暗い顔に驚いたことがある。ずいぶん悩んでいなさった。

それで私がお話ししたことが、お役に立ったかもしれない。すぐに明るいいつもの四島さんになんなさった。元気が出ましたな。

四島さんは、実に惜しい人で、亡くなられたときは、実にもうさびしかったですよ。四島さんはどんな言葉をつかっても言い表せない正直な人だった。そう思いますよ。

(談)― 平成3年(1991)10月 ―

16.貸しんしゃい

モリメン株式会社
社長 森山 馨氏

私と会長は同郷ということもあって、親しくお世話になりました。時々は会長室を訪ねて、世間話に花を咲かせ、いろいろ教訓もいただきました。

あれは、今から十年前になりますか、会長が私の会社においでになりました。珍客で、「ご用なら私の方から出向きますのに」と申しましたところ、「今日は頼みがあって来た」とおっしゃる。

「何事ですか」と申しましたところ、「森山さん、金を貸しなさい」との話で、「金ならあなたの方にうなっているではありませんか」と申したところ、会長曰く、「銀行の金を会長が借りるわけにはゆかぬから」との話で、私も「会長なら貸しますかな」と笑いました。

「何をなさるので」と尋ねましたところ、会長曰く「ひとつ、考えがあってね」。何ですかと言うと、「いやあ…」と言って言われません。つっこんで聞くと「じゃあ、パチンコ屋でもするかな…」と笑われました。会長独特のユーモアですが、何を考えてあったのか、今も興味があります。

とうとう、じゃあ…と、笑い話でお別れしましたが、四島会長からお金を貸せと言われたのは私ぐらいでしょうから、ずいぶん見こまれたものだなと、懐かしく思い出します。

会長のことですから、活きるお金の使い方を考えてあったのでしょう。

ふり返りますと、若いときから会長のお話はいろいろ聞きました。永い年月には同じことを何度も聞きましたが、信念で話されるので、あまり抵抗なく聞いていました。

個性のはっきりした、愉快なおじいさんでした。

(談)― 昭和41年(1966)11月 ―

17.四は吉数 一二三翁、よみがえれ

昭和鉄工株式会社
会長 山本 哲夫氏

一二三翁の百十年という事で、原田種夫さんの『四島一二三伝』を読みかえしてみました。今、翁が御健在なら、バブルで生じている情けない世相に、激怒なさるでしょうね。

堅実ひとすじの翁を回想する事は、経営者にも、一般の人にも非常に意義のあることと思います。

一二三翁の御日常は御本人が真剣で真面目ひとすじだけに、かえってはたから見るとユーモアに包まれた面がありました。翁は、アメリカ仕込みで、即席のウイットもよく飛ばされたようですが、本を拝見して、愉快な事に気がつきました。

ご苗字が四島さんだからでしょうか、一二三翁は四がお好きだったんですね。四十四歳で銀行をはじめられ、最初の社屋が中島町四十四番地。そういえば一、二、三の次は四ですね。

そして、司頭取に社長を譲られたのが昭和四十四年、そのときの司頭取が四十四歳でしょう。

四十四は、実に一二三翁と縁が深い。四も、四十四も、一二三翁と銀行にとっては吉数なんですね。いや吉数にしてしまわれた。実に、ご生涯の通りに、信念でご自分の世界をつくり出されたんですね。

一二三翁から司頭取への伝承も見事ですね。創立当初に掲げられた興産一万人が、着実に根をつけ広がっている。私はロータリヤンである事に誇りをもっていますが、一二三翁は地元企業の発展を通じて地域に奉仕されたのですね。私どもも励ましていただきましたが、地域経済への貢献を賞される“経営者賞”は一二三翁の浄財で運営されているんですね。

今の様相を見ていて、一二三翁よみがえれとの思いがしてなりません。

(談)― 平成3年(1991)10月 ―

18.一二三翁にふれて

高藤建設株式会社
社長 高藤 昌和氏

ナフコの深町さん、九州機電の西賀さんと三人で、昨年開設された「四島一二三記念館」を訪ねました。

福岡シティ銀行の創立者である一二三翁は独自の「興産一万人」の信念で、多くの起業家を支援された方でした。

バブルがはじけて、企業の廃業率が開業率を上回り、空洞化と雇用不安が懸念されている時だけに、「順境は人を殺し、逆境は人を作る」という、翁の墨痕鮮やかな言葉が鮮烈に印象に残りました。

ニュービジネスを起こし、新しい職場を創ることは、経営者の使命でもあるでしょう。時代を読み取る感性と知恵、異質なものを受け入れる受容力、そしてそのベースには翁の信念である「鉄の意志」が大切でしょう。

一二三翁の生きざまにじかにふれて、暗夜に灯火を得た思いで勇気づけられました。

(談)― 平成8年(1996)1月 ―

19.一番電車の証人

西日本鉄道株式会社OB
末次 神酒男氏

七十代の紳士が四島一二三記念館に来訪された。展示品を熱心に見ておられるので、お守り役の渕江順三郎さんが声をかけると、西鉄にお勤めだった末次神酒男氏で、一二三会長の一番電車通勤の話をされるので、驚いたそう。

お若い頃は市内線の運転手をされ、今川橋営業所に勤めておられたという。

「西新発ー九大行きの始発が朝の五時で、四島さんはいつもこの電車だった。天神で降車のときは(当時の本店は天神)、必ずていねいに帽子をとって挨拶された。行員の出社前にお茶を沸かすのが私の役目と、笑っておられた」と話された。

記念館の愛用の麦わら帽子をみて、「いつも煙管服で畑仕事をしておられたが、百道の海岸を散歩のときは、この麦わら帽子をかぶっていなさった」などと話をされて、往時の会長を懐かしんでおられたという。

記念サイン帳には、「四島一二三様のありし日が浮かんで、懐かしさがこみあげました」とありがたいお言葉があった。

20.お見舞い

夕刊フクニチ取締役
山本 秀之氏

二十七日早暁、因幡町商店街で火事があり、ハトヤさんほか多くの商店が全焼した。あいにくの強風と、商店街のレクリエーションで、店員不在だったことも災いし、商店街のほとんどを火焔がなめつくす大火となった。

明け方、ようやく火もおさまった頃、一軒一軒、被災と近火見舞いに廻っておられる四島会長の姿が人目をひいた。ぼう然自失の人たちへは元気を出してくださいと激励、どうにか類焼をまぬがれてほっとしている人たちへは、心からのお見舞い…。

あのお年で、四島さんがいちばんに…と、辞する会長の後ろ姿に、店主さんたちが感動のつぶやきをもらしておられる情景が見受けられた。

火事となると、たくさんの人がお見舞いにかけつけるが、災難に遭われた方たちにとって、会長の心からの励ましと、ねぎらいが、きっと大きな奮起の支えになったことにちがいない。

夕刊フクニチの山本秀之取締役も、報を聞いて現場にかけつけられたそうであるが、そこには一足早く、四島会長の姿があった。

「Dさん、四島会長の姿には頭が下がりました。ご老体が、私たちよりも早く、現場に立って、店主を激励されていました。この情景、肝に銘じて忘れません」

これは、名刺にそえて走り書きして届けられた山本さんの伝言である。

― 平成4年(1992)4月 シティ18 ―

21.日々是好日

電通
上野 昭八氏

昭和三十九年のことだったが、福岡シティ銀行四十周年記念として、当時は福岡相互銀行でしたが、ある日の会長の一日をフィルムに記録することになりました。

当時はまだビデオがありませんから、十六ミリ映画でしたが、なにしろ会長の朝は早い。ユニークな日常の主人公だけに「日々是好日」は撮影がたいへんでした。

百道浜の二宮佐天荘に、土居さんやカメラの桂城さんスタッフ四人が前日から泊まり込み、目覚ましを二つセットして万全の態勢で臨んだのです。

翌朝、四時のリーンで目覚めると三時四十分に起床された会長の一日が始まっていました。ご自身で門を開け、鶏の餌から山羊の世話。そして日課の習字の手習いまで。あわててカメラで追います。

大きな筆でよどみなく「努力」という字を次々に書いていかれる。生き生きと力強く実にいい字です。

朝食もさっさと自分でつくられる。卵、ミルク、オートミルのアメリカ仕込みのブレックファースト。それがまたなんと美味しそうで。

ふと気がつけば妙に体が冷えて手がかじかんでいる。それもそのはず。冬だというのに、会長のお宅は、窓もすべて開け放たれ、ストーブ、火鉢のたぐいは一切なかったのです。そしておきまりの一番電車での通勤から退行後の庭仕事まで、演出ゼロの密着撮影でした。日をあらためて、香椎や宮崎の顧客行脚までとらえました。

ありのままが、そのままに好演で、“千両役者”だなとスタッフで話し合ったものでした。

信念ひとすじに生きられた偉大な会長の謦咳(けいがい)に接し、ある一日の記録を残すお手伝いができたことを、ひそかに誇りに思っています。

― 昭和39年(1964)9月 ― 「日々是好日」撮影ノート

22.自分で立ち上がれ

麻生 藤登

会長(当時社長)が研修所においでになると、よく次の話をされました。

「アメリカで働いていた頃、農場の測量士の三歳になる子が転んでわんわん泣いているので、起こしてやろうとすると“子供は自分で立つから、いらぬことをするな”と叱られた。

アメリカの親は、自立心を子供の小さい時から身につけさせている。みなさんも自分でしっかり勉強して、独立できる人にならんといけません」。

自分の力で立ち上がれる人間、自分を自分で高めていける人間になるように、しっかり勉強しなさいと、自立心のかたまりの会長が、諭されているたいへん印象深いお話でした。

※研修所長。銀行の校長さんと親しまれた方でした。

― 昭和57年(1982)10月 ―

23.一番が好き

土居 善胤

会長は何でも一番が好きでした。

顧客訪問で宮崎に行かれるときも、ずいぶん早く空港へ着いて、改札一番に並ばれていました。

ところが、当時の宮崎は新婚旅行のメッカだったので、航空会社にも商略があって、「乗り込みは新婚さん優先」のアナウンスでした。

あっけにとられましたが、一二三翁はめげられない。八十歳をすぎておられたが、改札を出ると小走りに走って、次々にカップルを追い抜かれる。そしてタラップは一番乗りでした。

子供や老人なら許せる。だが、早く来て並んでいるのに、元気盛りの若いカップルに順を譲らせるとは何事か。一二三翁はその不合理が、納得できなかったのでしょう。飛行機に消える会長の姿が、してやったりに見えて可笑しかった。

なんともユーモラスな、会長らしい風景でした。

― 平成11年(1999)6月 ―

24.「経営者賞」と一二三翁

吉田 善以

私が入社したのは昭和二十七年で、一二三翁とのかかわりを持ったのは総務時代だった。当時は決算が年二回制であったから、株主総会の運営も三十数回担当した。一二三翁は創業者として、株主総会の運営にたいへんな心づかいをされ、当日はまさに戦陣におもむく決意だったらしい。

総会の前日には、必ず私を呼んで決意の程を吐露されたが、翁の発願文を頂戴したのもそのときだった。「あんたも先祖の位牌の前で唱えなさい。きっと心が勇気づけられるよ」。それほどまでに総会は会社にとって重要な仕事であり、気にかかる仕事だった。

監査役当時、翁から「興産一万人」のご信念をじかにうかがったが、この悲願が、経営者賞で知られる後の「九州・山口地方経済貢献者顕彰財団」の創設となった。「人生意気に感ず」。強く心を打たれた私は、お手伝いして必ずこれを実現することをお約束した。

この種の財団をつくることは、経験のないことであり、金融機関にも前例のないことであった。それだけに中途半端な心組みでは不可能で、強力な支えになったのは何といっても翁の不退転の決意だった。認可まで約六カ月間かかった。

この間関係各位先への交渉や申請、有力者への理事選任依頼など忙しいスケジュールだったが、翁の念願を思えば少しも苦にならなかった。とはいえ、認可までの半年間は翁にとっては、さぞ痺しびれの切れる思いだっただろう。

昭和四十七年、暮れも押し迫った十二月二十七日。認可を得た時の翁の目に感涙があった。余程嬉しかったに違いない。後にも先にも翁の涙を見たのはこれが初めてであり、最後になった。翁が私の手を握って「吉田さん、有り難う」と二、三度繰り返されたことを覚えている。

そして第一回の表彰式では昨年故人になられた「カメラのドイ」の土居君雄社長が受賞された。翌日だったか早速にも社長に同行してお祝いに参上した。

名と利に狂奔する今の時代にあって私財を投げ打って文字通り地域経済振興に全生涯をかけた翁の情熱は私にも強烈な感動を与えた。思うに翁は単に一介の企業家ではなかった。高い識見を持った高邁なる思想家でもあった。

古人曰く「我々は遠くから来たのだ。そして遠くに行くのだ。」いずれあの世で再会も叶うであろうが、私も平尾霊園に墓碑を建てているので盂蘭盆にはつとめて翁の墓前に立ち寄って、かつてのご縁を謝し、香を手向けながら往時を偲んでいる。

― 平成3年(1991)10月 ―

25.“私の四島一二三”

有松 照雄

原田種夫さんの『四島一二三伝』を読んで、強く心に残るのは、全篇に鉄の意志と火の精神力で断行する明治人のバックボーンが、脉々として波うっていることで、正に快哉(かいさい)の思いです。

と同時に数々のエピソードが、人間の社長を身近に感じさせてくれました。

人生僅か百年足らず、一二三さんが私たちにもっと大きく生きなさいと話されているようです。

― 平成8年(1996)3月 ―

26.奥さまご同伴で

磯村 隆臣

私は、一二三社長が八十三歳の時まで得意先廻りの先導を勤めさせていただきました。軽い靴で、身軽に小走りで廻られるお姿を、今でもありありと思いうかべることができます。

社長が古希をお迎えになり、珍しく奥様ご同伴で、山田支店においでになった事がありました。支店一同話し合って、お二人にお祝いのクッションを差しあげ、全員整列の前で、私がお二人に祝詞を述べ大変喜ばれた事を記憶しています。

― 平成8年(1996)3月 ―

27.「さいごのお見舞い」

伊藤 俊次

食欲が旺盛な方でしたが、召し上がり方がまたユニークで、一品ずつ順番に平らげられる。

ソーメンは、つゆを麺の器のほうにかけて召しあがる。私たちと反対で、“面倒なことしよるなあ”といった顔でした。

一二三会長の「顧客行脚」は有名ですが、支店長は、その都度、十四、五件の新規の訪問先を用意せねばならない。大変なノルマでしたが、励みでしたよ。

私がブラジルに渡る前、挨拶にうかがいました。ずいぶん体が弱っておられ、足がご不自由でしたが、板張りの玄関先に跪かれ、「伊藤さん、ぜひ成功させてください。私も元気になったら訪ねたいですね」と、頭を下げられる。

びっくりして、すぐに顔を上げていただきましたが、会長はブラジルにはひとかたならぬ思いがあったのですね。雄飛の地を、アメリカにするかブラジルにするかとずいぶん迷われたそうですから。

「カイチョウ キトク」の知らせを受けて、ブラジルから最終便で福岡に到着したのは、昭和五十一年十月三十一日でした。友人と話していて気がつけば、夜の十一時を過ぎています。「お見舞いは明日に」と言うと、「危篤だから、すぐに行ったほうがいい」とのこと。そりゃ大変と、真夜中にお宅へうかがいました。

部屋には司社長夫妻、榎本一彦さん夫妻ら親族の皆さんがいらっしゃいました。会長の傍らに正座しておられた杉乃井ホテルの石田社長、高木工務店の高木社長のお二人は、もう一週間もそうしていらっしゃるとのことでした。会長はすでに意識のない状態で、声をかけることもできませんでした。

翌十一月一日午前七時、九十六年の生涯を静かに終えられました。御長女の榎本夫人に「亡くなる時は、会いたい人に会うまで死ねないらしい。伊藤さんに、よっぽど会いたかったのでしょう」とおっしゃっていただき、胸が熱くなりました。

こんなこともありました。

昭和四十七年の暮れもクリスマスを過ぎた頃、箱崎支店長の小田さんが、「会長に色紙を一枚書いてもらえまいか?」と言って来ました。開拓先のお客さんが、「四島さんが大好きだから、あの人に『蛇一生』と色紙に書いていただけたら、預金は全額貴行に移します」と言われるのだそう。

九十歳をこえられた会長は、歩行も二人の秘書に支えられてのご日常でしたから、駄目だと思いましたが、一応お耳にいれました。ニコニコ笑っておられたが、「この頃は字を書いていないから、申し訳ないがお断りして下さい」とのことでした。

それから数日して大晦日の日に、会長によばれ、「新しいお客さんとの取引が始まるのなら、箱崎支店の行員さんも喜ぶだろうから書いてみよう。筆をとるのは久し振りだが、一月四日の初出勤の日に持ってきます」とおっしゃる。

明けて、初出勤の朝、新聞紙に包まれた五枚の色紙をいただきました。正月三が日に苦労された跡がにじんでいる力作ぞろいでしたが、会長も満足感あふれる、ニッコリ顔でした。

― 平成7年(1995)10月 ―

28.アスノアサ タズネマス ヨロシク…

伊藤 秀孝

もう二十五年ほど前、私が小倉支店長をしておりました時、一二三会長から電話がかかりました。緊張して受話器をとると「伊藤さん、お願いがあります。明朝、始業前にお邪魔しますが、よろしいでしょうか。お願いします」というお話です。

八十路の会長が朝早くから小倉までとおっしゃる。私はびっくりしてしまって、「いえ、私が明朝、ご指定の時間にまいります」と申しあげました。

すると、会長は「いいえ、私のお願いですから、私がまいります。よろしくお願いします」とおっしゃって、もう、どうしようもありません。

翌朝、お約束通りに、愛用のマーキュリーで支店長社宅に着かれました。今と違って道も不十分な時ですから、お宅を朝五時すぎに出られたのでしょう。

プライベートなお話で、私ですむことでしたからお役に立つことができました。

しかし、この時の感動と衝撃の大きさに、典型的な明治の人、一二三会長の偉大さをつくづく感じました。

世間一般ならちょっと来てくれですまされることでしょう。

公私のけじめと、ご自分に決められたルールを守られるきびしさにはまいりました。すごい人だな、と思いました。

会長の「顧客行脚」にもよく御一緒しましたが、いつも感じることは、長者に対する礼儀の正しさでした。

ご本人がすでにご高齢ですが、訪問先の親御さんが顔を出されたりして、一歳でも年が上の方だと、とたんに言葉遣いと応対が変わります。長者への礼節、これはまことに見事でした。

訪問先で出されたものはお気持ちだからと必ず口にされました。特に甘いものには目がなかったようです。おはぎをお盆に盛ってだされたときは、お鉢が私にまわって「伊藤さん、これ、おいしいよ」とすすめられるのです。いただきすぎて、体調をそこなわれた記憶があります。そのときの巡店は中止になりましたよ。

会長がお亡くなりになった時は、本当に悲痛にくれました。柩を担がしていただきましたが、たいへんな重みを感じました。

巨きな、骨のある、温情ある、立派な方を銀行の創業者にいただけたことは、私たちの幸せだったとつくづく思います。

― 平成9年(1997)3月 ―

29.一二三翁の心をつがれて

内田 マサエ

私は信用組合から福相の行員になりましたが、一二三翁が、チンチン電車の一番乗りで、それも三十三年間、決まった席で御出勤だったというお話を、先輩行員から何度もお聞きしました。

そして原田さんの『四島一二三伝』でさらに詳しく知りましたが、家庭を、奥様を、また行員を大切にされていた事がよくわかります。

テニスや水泳にきた行員にお風呂を沸かされたり、お家で鶏に餌をやられる温かさがにじみ出るお人柄にひかれます。

そのお心づかいが現頭取にそのまま引きつがれて、OGの私たちまで毎年の行友会で厚遇を受けております。実に自然な笑顔で、優しい言葉をかけていただき、ビールのサービスまでもいただきまして本当に一二三翁のお志をそのまま受けつがれてるのがよくわかります。

頭取はお仕事の面でも文化の面でもご活躍ですね。公民館の国際化の勉強等で、頭取のモンゴルのお話をお聞きして、一二三翁のお心をつがれて活躍なさってらっしゃると誇らしく感じております。

― 平成3年(1991)10月 ―

30.ご苦労されたことでしょう

梅林 新一

私が銀行に入行したのは昭和三十六年です。一二三社長は支店によく廻って来られ、私どもが用意したお昼の給食を笑顔を浮かべながら喜んで食べてくださいました。

勝山町の収入役をしておりました父に、アメリカで働いておられた事や昔の事をいろいろたのしそうに話しておられたそうです。

きっと御苦労なされた事でしょう。

― 平成3年(1991)10月 ―

31.欲しいものは買うな

大神 哲夫

入社以来、朝五時半に家を出ましたから、出社は会長が一番、私が二番で、毎朝まわりの拭き掃除をしておりました。一年半ほど経って、会長からはじめて名前をきかれ、それから何によらずおたのみを受け、イモづくりのコーチまでしてさしあげました。ずっと見ておられ、信用していただいたのですね。

たしか新本店へ移って一年半ぐらいたってのことでしたが、会長は独自の健康法で、会長の部屋をぐるぐるまわりしておられましたが、愛用の数取り器が旧式のプッシュ式なので、新品をと言われます。

新品は六百円。会長は二五○円で買ったのだから六百円は高い。大神さん、油をさして…といわれる。油をさしてあげると、うん。これでいいとご機嫌でした。

必要なものにはびっくりするほど大胆でしたが、欲しいものにはとことんケチをされるお金を大切にされた好例ですね。

― 昭和57年(1982)11月 ―

32.一二三会長とコチコチの新人支店長

大久保 昭三

昭和三十四年四月に宮崎支店長として、初の支店長会議に参列したが、一二三社長(当時)の顧客訪問に随行を命じられ、特急列車でお伴をしました。

なにせ、雲上人の社長とただ二人で七時間の車中の旅。コチコチの新人支店長に気をつかわれて、私個人のこと、宮崎の顧客風土、支店長の心構えなどをやさしくお話しになり、リラックスさせていただいたことを、今でも懐かしく思い起こします。

また営業部副部長時代、二台のバスで別府へ社員旅行のとき、一台が路肩に転落という不測の事故が起きました。一報到来するや、直ちに車を現地に走らして、一番先に見舞いに来られ、社員を慰められた社長の温顔が今も思い浮かびます。

この社長のためならばと、私ども社員を奮起させられた一二三翁を、私は何時までも忘れることができません。

― 平成3年(1991)10月 ―

33.自分で車を誘導

大橋 俊昭

会長の顧客訪問では随分と各支店で随行させて頂きましたが、特に故郷の筑後周辺をお巡りになる時はなつかしく嬉しそうでした。

その中で仕事に対する厳しさを思い知らされた事があります。会長の車は大きなキャデラックでしたので、道路事情の事前調査が大事でした。思いがけなく一晩のうちに舗装路が掘り返され、車腹がつかえて通れず、脇道に入った所で両側石垣の狭い道で立ち往生した時、自ら厳しい顔で下車され、車を誘導された時の私の心境は…。ご想像におまかせします。

― 昭和51年(1976)11月 ―

34.いつも、ごちそうさま

岡松 美代

会長さんは、天神の旧本店時代に、毎日お一人で食堂に来られて、行員と一緒に昼食をとられていました。忘れられないのは、

・食器を返される時には「ごちそうさまでございました」と、いつもおじぎをして下さいました。

・たまに早く来られて、仕度ができていない時には「急がなくてよいですよ。すみません」と言われて、静かに図書室に入って、待っておられました。早起きの方ですからムリもありません。

・独特の箸はこびで、始めにお菜の方ばかり食べられ、それから御飯に移られるのです。また、大根おろしや刺身にも醤油を一滴もつけられません。お尋ねすると「あまり塩気をとると体に悪いですよ」と言っておられました。

・お食事の早いこと、早いこと、あっという間に召し上がられていました。若い人たちにもよく声をかけておられましたが、新人行員の方はコチコチで、会長さんのお気づかいぶりとともにあたたかい風景でした。

・お好きなものはアンコ餅で、よく西鉄街のお店へ行って、御自分で回転焼きを買っておられましたね。

・顧客行脚でよく支店を回られましたが、帰られると秘書課からきまってお粥の注文が来るのでした。

・お客様が「せっかく用意して下さったものだから」と、訪問先ごとに召し上がられるので、お帰りになるとお腹を悪くされるのだそうです。

昼食のお世話をさせていただいた十五年間をふり返って、思い出がいっぱいで、とてもとても書きつくせません。

御命日には、会長さんの胸像にお花とお菓子をお供えすることにしています。会長さんが「岡松さん御馳走さん」とおっしゃるような気がいたします。

― 昭和51年(1976)11月 ―

35.“欲しいもの 必要なもの”

元福岡シティ銀行頭取
(長男)四島 司

父と言えば子供時代の忘れられない思い出があります。父はなにしろ家の井戸まで自分で掘った人で、独立独行のかたまりのような人でした。スコップで地面を掘って井戸枠を沈めていく。子供だった私たちは次第に深くなる穴の中から父のサインで、滑車をつけたザルで泥あげを手伝いました。

小さい頃、父の背中にしがみついて、百道浜から鵜来島まで泳いで往復したこともありました。父の背中が大きく見えましたよ。

彼は自分を励ます多くの格言をつくりましたが、中でも私の一番好きな言葉は、平凡だが、「欲しいものは買うな。必要なものは買え」です。ただし「必要なもの」には、最上の品質にと、注釈をつけなければなりません。

作者は明治の中期に十七歳でアメリカへ渡り、おきまりの皿洗いをスタートに、刻苦精励した人物ですから、これは彼の生涯を貫いた単純明快なマナー哲学だったのでしょう。

彼の十八番だった自家用格言は、だれ一人頼る人とてない異郷の地で、自分を奮い立たせるために必要なメンタルツールだったのです。

彼は、当時世界一だったカリフォルニアのレモン農園のオーナーに認められて、農園経営に成功し発展の基盤を築きました。三十八歳で帰国し、四十四歳で銀行を設立しています。

靴や、ネクタイや、洋服や、日常生活は質素そのものでしたが、銀行の設備投資は最高のものを惜しみませんでした。福岡地区でオンライン実施の先行を決めたとき、彼が真っ先に支援してくれたのはその好例だったでしょう。

身近な例をひとつ。終戦後は日本もドイツも青息吐息で、世界を風靡した車はアメリカ車でした。彼は当時の高級車だったリンカーンを自家用車に選んでいましたが、その効果は、ほどなく実証されました。対向車が迷走して、ハイスピードで突っ込んできたとき、運転手さんはとっさにハンドルを左に切り、田んぼにジャンプして衝突を避けました。

まだガードレールが整備されていない時代でしたが、車はなんの損傷もなく、人間たちも無傷ですみました。当時の彼にとってリンカーンは“必要なもの”だったのでしょう。

結婚式でこの格言をよく話していましたが、門出のカップルには適切なはなむけでした。

欲しいものはぐっと我慢のリストラの時代ですが、必要なものは高品質の物をそろえて、次の飛躍に備えなければなりません。これが激浪の時代を乗り切る英知でしょう。

彼は、私が永年にわたって造反を重ねてきた私の父で、すでに没後三十三年になります。

いつまでも遺産の言葉に感心している息子に、父は高級車の“金斗雲”で天界をドライブしながら笑っているのかもしれません。

― 平成3年(1991)10月 ―

36.妙に懐かしい、祖父になった“一二三さん”

元福岡シティ銀行副頭取
九州債権回収株式会社会長
(孫婿)井上 雄介

縁があって四島家の長女と結婚しましたが、一二三さんが亡くなった後のことで、話に聞いていた、明治生まれのツワモノの、信念居士の生前の風貌にふれることはありませんでした。

広島の山間の町長をしていました父が、全国町村会長も引き受けていましたから、世間も広かったようです。昔風の人でしたから、日本銀行の上司から話があると、さっそく福岡へきて、一二三さん夫婦と、義父のことを耳にしておりました。

きちんとした家の娘さんだと、家内のことも気に入りましたよう。本人の私よりも乗り気になって、私にすすめる按配でした。

そして、一二三さんの考えと生き方に共感しまして、どこから手にしましたのか、いい本だから読めと、赤い表紙の『四島一二三伝』を渡してくれました。

縁がまとまって、すすめられるままに、当時の福岡相互銀行に入りましたが、挨拶にうかがったお客さまから、早々に祖父一二三さんのことを聞かされるのでした。次のお客さまも、次の方も。本当に耳にたこができるぐらい聞かされましたよ。

どなたも、一二三ファンで、私に祖父の話をすることがたのしくてならないよう、また銀行の先輩たちも同様で、私もすっかり一二三さんシンパになっていました。

折々に、若い人たちに、創業理念を大切にと一二三さんの「興産一万人」にしびれた話をしたりして、苦笑することも再三でした。

明治生まれの信念居士の一二三さんが在世なら、孫婿の私にどんな言葉をかけてくれたでしょうか。可愛がられた妻の話で、一二三、カツミ夫婦が、さらに身近に感じられて、早く銀行になじみ、四島家にとけこむこともできたようです。

私たちの結婚式のとき、一人娘を嫁がせる父は、「ちょっぴり悲しく、大きく嬉しい」と、言ってくれましたが、一二三さんが、起こし、守り立て、父が大きくしてきた銀行の一員になるのだな、四島家の一人として、地域に溶け込み、役立たねばと決意をいたしました。

以降、一二三さんはいつも身近に……。

信念の人と言われていますが、実にユーモラスな日常生活で、親しめば親しむほど、懐かしいじいさんですね。

― 平成20年(2008)10月 ―

37.じいさんは私のバイブル

福岡地所株式会社 会長
(孫)榎本 一彦

キャナルシティが完成した時、母がお祖父ちゃんにぜひ見せたかったと申しましたが、生きておればどう言ったでしょうね。

どこにもサンプルがない日本一の規模のものをつくるのですからね。支えがなければプレッシャーに押しつぶされたでしょう。私を理解してついてきてくれた社員のおかげですが、心の支えはいつも一二三じいさんであり、司頭取でしたね。

ユニークな言葉

平尾にある四面格言の墓の正面の言葉がいいでしょう。
「祖先に対する最上の祭りは道を守り業を励むにあり」

ロイヤルの江頭会長がつねづねいい言葉だと言っておられたが、キャナルに取り組んでからは、いっそうひしひしと伝わってきましてね。じいさんが負けるな、勇気を出せと言っているようで、何よりの励みでしたね。

じいさんを一言で言えば、私のバイブルですね。

司頭取も思いは同じだと思いますよ。だが、頭取はシャイだから、親父さんのことなど話はしない。

じいさん風の自己規制

孫を集めて、冬など、コタツ話をするのが大好きでしたが、説教話や、ふくらました話、あいまいな話などでなく、自分のしたことだけを、飾りなく、率直に具体的に話す人でしたね。

失敗の話も、相手の年齢にたって、その時分に自分はこうしたとか、ああして失敗したとか話してくれる。

おとぎ話のような旧い話が、じいさんの語り口でいきいきと眼前によみがえって、じいさん話は孫たちに大評判でしたね。

酒は一滴も飲まない謹厳な人でしたが、アメリカで、レモン農園に住み着くころまでは、たいへんな呑んべえで、“酒は飲め飲め茶釜でわかせ”とやっていたそうです。

それが、人事不省に酔っ払って二段ベッドで粗相し、下の人に迷惑をかけたそう、また飲みすぎて亡くなった人も見てきて、ぱったりと酒をやめたそうです。

仕事が趣味の人でしたね。小学校低学年の小さい私に、今日はお客さんを何件回ったとか、預金をしてもらったとか。こちらは面白くも何ともないが、じいさんは孫で最初の男の子だった私に、銀行のことが話したくて仕方がなかったんですね。

じいさんは、自分の事も銀行の事も、目標をきちんと決めて、そのひたむきさがすごいと思いましたね。

ほかの人なら黙っているでしょうが、じいさんはこうしようと思ったら会う人ごとに話すし、印刷物までつくって、自分を追いこんでしまう、じいさん流儀の“自縄自縛(じじょうじばく)”だったんですね。

「欲しいものは買うな、必要なものは買え」は、じいさんが作った傑作の格言ですが、これも自分どまりで、人に強制はしなかったですね。

お年玉はいつも百円

よく可愛がってくれましたが、価値感覚が停止しているところがあって、お年玉はいつも百円だったかな。

おじさんたちは、五百円か千円くれたときにですよ。なぜじいさんだけが百円なんかと不思議でしたね。

それで「ケチ」と言ったら、「孫がケチと言った」と、会う人ごとに嬉しそうに話していたそうです。

行員の人が泳ぎやテニスにきて、じいさんが沸かした風呂に入っていました。子供の私はじいさんについて、マキ割りや、風呂沸かしを手伝いましたね。

口癖は「土地がいい。土地は逃げない。土地はうそをつかない」と、いつも言っていました。じいさんが言っていたのはずいぶん昔の、土地が一番確かな資産だった時のことですからね。

努力と意志の人

習字もそうですよ。昔の事で高等小学校しか行っていないから、字が下手だといって、八十歳から猛烈に習字をはじめましたね。紙は古新聞、毎日練習して、独特の味のある力強い書体を身につけてしまいました。文字通り八十の手習いでしたね。

けた外れの努力と自制の人でしたが、見事だったのは、決して私たちにこうしろと強制したりすることはなかったですね。

ばあさんといいカップル

ばあさんとの仲はよかったですね。じいさんは三時半頃起きて、羊や鶏の世話をしてから、ばあさんとの朝食をつくってましたね。ばあさんは四時半頃起きる。じいさんが「今日は目玉焼きにしたよ」「ああ、そうですか」と、円満な一日がはじまっていました。

ドックへ入って、十歳ぐらい若いと言われたと言っていましたが、実際は体がガタガタだったらしい。ばあさんは心配して、それはそれは気を遣っていましたね。じいさんがああした生き方ができたのは、蔭にばあさんがいたからですね。

じいさんは、ばあさんを妻(さい)が妻がといっていましたが、苦労をかけたという思いはひとしおで、ばあさんにはよく気を遣っていましたね。

二人三脚じゃない、二人で一人だったのですよ。だから元気だったじいさんが、ばあさんが亡くなると、バネが切れたように、がたがたになって次の年に亡くなりましたものね。

一二三じいさんとカツミばあさんに多くのものをもらったと思います。“独特の自縄自縛”の生き方でしたが、じいさん流に超越した大自由人だったのかもしれませんね。

― 平成3年(1991)10月 ―

38.優しい父 優しい祖父 娘と孫たちの一二三さん

生誕110周年回想「私の四島一二三」
一二三さんを偲ぶファミリー座談会から(要約)

榎本 和子(長女)

父は優しいひとでしたよ。伊崎浦の家の頃は、昭和初年で、まだ電話が珍しい頃でした。父は会う人ごとに、ご自由にお使いくださいと言っていました。だから呼び出しもしょっ中で、子供の私が走って呼び出していました。

電話機は家の奥の方でしたから、電話をかけにきた人は、私たちの部屋の前を通られる、私たちは出るに出られずで、子供心にはオオメイワクでしたね。

あの頃は物乞いの人がいましたが、父はよくさしあげていましたよ。

気に入ったものをよく買ってきていました。熊手やほうきもありますが、驚いたのは毎朝発願文を唱えて拝んでいた仏像も、どこかの古道具屋で見つけてきたものでした。それがたいへんな値打ち品と知って、またあとで驚きました。

父は激しい多くの格言をつくり、意志の強い人と思われていますが、シンは優しくて、娘や孫たちへは底なしでした。気の弱い一面もありましたよ。信じられないかもしれませんが、とくに株主総会の前は、慎重に万全の準備を整え、自分を励ましておりました。だから自家用の格言は、優しい父が、自分の弱さを乗り超えるためだったのだと思います。

早良(さわら)の方の娘さんを両親があずかった事がありました。縁談のもつれかなにかで、しばらく家にいないほうがいいということで、それならお任せ下さいとあずかったのです。

ずっと家の中にいて表に出ませんでしたが、あるときお百姓さんが作物を売りに来たので、つい顔を出したら、「あんたここにおるとな」と、近所の人でした。それが申し訳ないと、父が娘さんの両親に手をついて謝っていました。

先方が恐縮しておられましたが、約束して引き受けたものを、申し訳ないとの思いが、手をつかせたのですね。

アメリカのレモン農園の管理をしていたせいか畑仕事が好きでしたし、農園関係の工夫をするのが好きでした。パイプで畑の散水を一斉にしたり、こういうときの工作は、いつも石井鉄工所の石井さんにお願いしていましたね。

そうそう井戸掘りも上手で、独りで掘っていました。自分で少しずつ掘って井戸枠を沈めていくんです。割合、簡単にやっていました。子供たちは上でガヤガヤ言いながら、滑車で土を運び上げる手伝いをしました。

それからテコの応用がとてもうまく、得意顔でした。工夫することがとても好きで、エジソンを尊敬していました。

私の結婚のとき、父は松屋で、花嫁衣装を自分で決めてきました。何種類も買ってきたので手を通さないものもありました。

貸衣装もありませんでしたから、私たち夫婦が仲人したKさんほか何組もの花嫁さんに、私の衣装を役立ててもらいました。

四島 三千代(司・夫人)

ずいぶん昔のことですが、一カ月ほど入院したことがありました。絵里子がまだ小学生の頃でしたが、父と母がよく面倒をみてくださった。

主人は忙しいのでなかなか来てくれなくて、代わりのように、父が毎日見舞いにみえるのです。

時間も三十分と自分できめていて、その間、じっとニコニコすわっておられる。最初の四、五分は、話があるのですが、あとはマがもてません。感謝しながら、モジモジしていたことを思い出します。

ときどき手の荒れをみて、無理をしなさんなといったり、本当にありがたいやさしい父でした。

坂口 留美子(四女)

私がお産で帰りましたとき、部屋が二階でしたが、階段でころんでは大変と、父が大きな船用のロープをどこかで見つけてきて、手すりにまた大きな釘で打ちつけました。上り下りをそれにつかまれという訳です。父の愛情があふれた荒仕事でした。

面白いこともありました。父はいつも七時に寝室に入りましたから、ある日、もう大丈夫と女たちだけで麻雀をしていますと突然停電です。父がハラを立てて電源スイッチを切ったのでした。

ハイカラな面も多かったですよ。我家の食堂にはミレーの“晩鐘”の絵がかかっていました。

昭和十二年頃、大濠の家はもう水洗でした。風呂場も浴槽に段をつけて、水の節約と上がり下りがうまくいくようにしたり、コタツから火事にならないように、置火のかわりに電球をつけたりしていました。

母はいつも和服姿でしたが、洋服を着ることもありました。父は喜んでフランスばばあと言って笑っていました。

畑仕事も、人一倍研究熱心で、よく手入れをし、肥料もうんとやるので作物はいつも上出来です。出来すぎて保存しましたが、多すぎて腐らせたこともありました。

井上 絵里子(孫)

祖父が会社を創立した時の志と歩み、ふだんの姿に思いをはせると、その高い意識、器の大きさ、思いやりの深さに畏敬の念を禁じえません。

若い頃の父は、そんな祖父に対し反発もあったようですが、祖父には父への愛、頼れる後継者にとの大きな意志があったのでしょう。だからこそ、父子ならではの葛藤も生まれたのでしょう。

最近の父は、祖父に顔も性格もそっくりです。祖父が、自由に生きている父を黙って見守っていたのを思い出します。

目を閉じれば麦わら帽子をかぶり作業服を着て、黙黙と畑仕事をしている祖父の姿が浮かんできます。帽子の下には、あの懐かしい笑顔がありました。

会社での厳しい面はつゆ程も知りませんが、私にとっては温かく優しい祖父で、怒った顔を思い出すことができません。

子供の頃、祖父や祖母といっしょに広い食卓で食事をするのがとても嬉しかったです。四歳のとき、つい、はしゃいで、うしろにそりかえり、反動で前につんのめって、ガラスコップに顔をぶっつけました。

破片でキズをして顔面血だらけです。すぐに近くの病院にかつぎこまれましたが、夏のことで祖父は下着のまま、祖母も着のみ着のままでついてきてくれました。とても恥ずかしかったのですが、祖父母の優しさを、子供心に深く感じたものです。

祖父は、すぐ家具屋をよんで、うしろにスプリングのきいた椅子に取りかえました。えらい祖父だと思いました。

天神にあった本店に、時々母に連れられて訪ねました。まだ会社が小さいこともあって、銀行全体が一つの家族のようなもので、「ホームぎんこう」の名にぴったりの雰囲気でした。

そのあまり見栄えのしない本店の奥の殺風景な社長室で、ニコニコと笑いながら、祖父は私を迎えてくれました。

その頃、私の自宅は茶園台にあり、隣は独身寮。もともと祖父母が住んでいましたが、西新へ移ったので、その後に私たち家族が入ったのです。

お正月の三カ日は独身寮の人はもとより銀行の方々が大勢あいさつにみえ、夜中まで酒を酌みかわしていました。母の一生懸命料理をつくっていた姿が思い出されます。玄関に入りきれないほど靴が並び、必ず誰かがはき間違えて帰りました。

お酒は飲まない祖父に代わって、そういう席は父が一手に引き受けていました。もともと祖父はお酒がひじょうに強かったが、友人が酒を飲みすぎて亡くなってからぴたっとやめたのだそうです。アメリカにいた時の話です。

中学生の私に、福沢諭吉の『福翁自傳』を買ってくれたことがありました。祖父は独立自尊の福沢先生を尊敬していたのです。

祖父が荼毘(だび)にふされた日に、運転手の方から初めて聞いた話があります。私の修猷館時代、校門に車を止めて、「絵里子がおるかどうか見て来てください。授業が終わっていたら送って帰ろう」というのだそうです。それを何回も何回も…。

たまたまいい成績をとると、他愛なく喜んで、誰にでもおかまいなく話してしまって、私を困らせたり…etc。

私には優しい、普通のおじいさんでした。亡くなる前に、周囲の顔がおぼろげになってからも、私のことは覚えていてくれて…。それはとても嬉しいことでした。

祖父も、そして祖母も逝ってしまって、私の子供時代は終わりました。

小澤 美香子(孫)

休みのときはみんなで祖父母の百道の家へゆきました。遊ぶところがいっぱいあって子供の天国でした。

はしゃぎすぎて、私がまちがって池におちました。すぐにひきあげられましたが、祖父はすぐに“池屋さん”をよんで、池の底を私たちにあわせて浅くしてしまいました。

鯉が泳いでいましたが、私たちが池で泳いでもニコニコ見ていました。

銀行の行員さんがテニスにきていたコートの周りには月見草がたくさん咲きました。夕飯は五時頃なので、よく祖母と手をつないで月見草の中を散歩しました。目の前で、黄色い花が開くのです。

優しい祖母と月見草は、とてもよい組み合わせでした。

当時は百道浜が居宅に近くった。お孫さんと。

当時は百道浜が居宅に近かった。お孫さんと。

― 平成3年(1991)10月 ―